2010年9月13日 (月)

EDGAR FROESE/Aqua

Aqua


 1974年リリースのヴァージンでの第一作。フローゼがオール時代のソロを残していたのかどうか、実ははっきりしないのだが、おそらくソロ作品としてはこれが第一作となるだろう。時期的には73年の「フェードラ」と74年の「ルビコン」の間くらいに制作されたようで、実際聴こえて来る音楽も、調度両作品の狭間のようなものになっている。
 具体的にいえば、オール時代のシリアスで重厚な音響に、徐々に抒情的あるいはロマンティックな情緒が浸食し始めたタンジェリン・ドリーム本体の音楽に、ほぼ歩調を合わせた趣きといってもいいと思う。まぁ、フローゼはタンジェリン・ドリームのリーダーだったから、こうなるのも当然といえば当然だろうが、ソロ・アルバムにありがちな趣味的な部分を展開したようなところが全くないのは逆におもしろい。

 ただし、タンジェリン本体とは違って、ペーター・バウマンがいないので、例の扇動的なビート感はほぼ皆無、フランケのパーカッシブでアブストラクトな音響センスもないので、音楽はややこぢんまりとしているのはソロ作品だから仕方ないところだろう。まぁ、その代わりといってはなんだが、ここには「悪夢の浜辺」や「フェードラ」を思わせる飛び散るようなシンセの粒子感、白日夢のようにどろーんとしてやけにスペイシーなオルガンの白玉が全面に出ているのが特徴ともいえる。
 タンジェリン・ドリームの音楽というのは、テンポの緩急やサウンドのメリハリという点で、一聴して即興的に聴こえても、実は明確にハイライトが設定された構成的なもの(特にスタジオ録音はそう)であるのに対して、ここで聴こえてくる音楽は一見それと似ているようで、ある意味アンチクライマックスの音楽というか、時間のとまった宇宙を永遠に漂っているような感覚があるのが特徴だと思う。まぁ、そのあたりがタンジェリン・ドリーム本体とはまた違った気持ち良さだろう。

 収録曲では17分に及ぶタイトル・トラックの「アクア」が聴き物だ。文字通り「水」をキーワードに様々なイメージを膨らませた音楽で、ふざけた表現をすれば「悪夢の浜辺(フェードラ)に至る川の流れ」といった趣きが感じられる。2曲目は「パノフェリア」は単純なシーケンス・パターンにのって様々な音響が繰り出させれるタンジェリン・ドリーム本体の「フェードラ」を思わせる作品だが、さすがにこういう作品ともなると、スケールといいサウンドの多彩さといい、さすがに本体の完成度にはかなわないという気がする。
 旧B面の「NGC891」は序盤でオール時代を思わせる荒涼としてスペイシーな音響が展開され、途中から「ルビコン」を思わせるリズム・パターンが入ってきてタンジェリン・ドリーム本体を彷彿とさせる音楽となる。ラストの「アップランド」もオール時代を思わせるスペイシーな音楽で、オルガンの狂おしさが懐かしい。

2010年9月 3日 (金)

森園勝敏/クロス・トーク

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 「ジャスト・ナウ&ゼン」から6年後の作品だが(両者の間には「4:17pm」という作品もあるのだが手に入れられなかった)、時流に合わせたのか、1曲目の「スピリチュアル・レッド・ブギー」からいきなり「打ち込みファンク・リズム+シンセ・ブラス+デジリバの遠近感」つまり、スクリッティ・ポリッティ的サウンドなのは驚く。彼のソロ作といえば、第4作「スピリッツ」の冒頭に収録された「恋にお手上げ」でのアレッシーも真っ青なAOR的ポップさにも驚いたが、こちらも中々の日和見振りではある。
 2曲目「ノー・エグジット・ラブ」や3曲目「アイヴ・ガッド・ユア・ナンバー」では、テキサスみたいなハードなエッジのギター・ポップ的サウンドにのって、「ふたりは恋のヘアピンカーブ」とも「恋のテレフォン・ナンバー」みたいな歌詞を歌ってしまっているし(笑)、本作には、当時売れ筋だったであろう音楽記号が満遍なく散りばめられている感じである。まぁ、商売上こういう曲は、お仕事としてやらなければいけなかったのだろうが、さすがに、ちと迎合しすぎという気がしないでもない。

 さて、本作がいつもの森園らしくなるのは、まずは4曲目の「C.T.ストンプ」だろう。実にアーシーでブルージーな作品で、「バッドアニマ」の頃を思わせる仕上がりにもなっている。ギターもあの時に以上にコクがあり、ギタリストとしての円熟を感じさせずにおかない。ゲストとして参加した竹田和夫とのインタープレイも、シャープな竹田に対し、「受けの森園」らしさが遺憾なく発揮されたプレイを展開。ニュアンスは違うがプリズムでの位置関係を思い出させたりもして実に楽しめる。。
 あと、カバーとして収録された、マーク・アモンドのデビュー作から「シティ」、ディープ・パープルの第3作でお馴染み?の「ラレーニャ」もいい。そもそもこういう選曲をしてくる自体、世代的な共感を感じずにはいられないうれしいものなのだが、前者はちょっとレゲエっぽいリズムで処理されたAOR風なサウンド。後者はオリジナルでジョン・ロードのジャジーなオルガンがフィーチャーされていた部分をギターに置き換え、全体はこのアンビエント風なムードもあってなかなかムードある仕上がりになっていて、それぞれかなり楽しめる。

 という訳で、聴きどころがゲストが入った曲やカバー…というのは、ちと寂しい感がないでもないが、ポップな曲にあってもギターはもちろん、ボーカルなどもなかなかどうしてたっふりと躍動しているは、さすがというべきだろう。{「クール・アレイ」や「エスケープ」のようなスティーリー・ダン的なフュージョンの森園というより、「やはり彼はロックの人なのだ」と思ってきけば、それほど悪い仕上がりでもないと思う。
 それにしても、本作を出した後の彼はサントラ一枚出しただけで、まぁ、企画物は別とすると、どうもその後ソロ・アルバムはすっかりごぶさたしているようだ。それとも、彼の活動は、もっぱらセッションとたまに四人囃子というスタンスになってしまったのだろうか。ロック・ギタリストのソロ・アルバムといいう需要がなきに等しい昨今にあって、これは寂しいことではある。

2010年8月25日 (水)

四人囃子/ダンス

Dance


 Neo-Nから10年後の89年に、佐久間、岡井、坂下の3人で再結成された作品。どうやらベースの佐久間が全面的に主導権を握った形で再編成のようであり、従来の感覚でいえばキーボード・トリオと形容するところだが、気張って彼がギターまで担当しているのが注目される。つまり佐久間は四人囃子の第3のギタリストになった訳だ。
 音楽的には前作「Neo-N」で展開されたテクノ/ニューウェイブ的コンセプトをそのまま10年後のトレンドで推し進めたところだろうが、前述の通り、既に佐藤ミツルもいなくなっているので、従来の四人囃子にあったオーソドックス的なロック・センス、プログレ的なドラマ性は大幅に後退している内容だ。

 そこにあるのはマガジン(というかバリー・アダムソン)あたりと共通するかのような、ギラギラとしてアシッド、かつ退廃的な香りがするエレクトロニクス・サウンドの肌触りだろうか。まぁ、このあたりこそ「プラスティックスの佐久間」のセンスだったのだろう。
 1曲目の「一千の夜」からして、ヴォコーダー、パワー・ステーション風なファンキーなギター・リフ、オブジェのように配置されたギター・ソロ、「Neo-N」での手数の多さが嘘のようにまるでアート・オブ・ノイズの如きリズムを刻むドラムと、本作がコンセプトが明々白々である。2曲目のタイトル・トラックではエレクトライブ101を思わせるダークな温度感のサウンド、3曲目のキャバレー風なサウンドにクールなテクノ・サウンドを組み合わせたクレバーなアレンジと、とにかくばりばりにエレクトリックな音楽になっている。

 さすがに、ここまで煌びやかで都会的な音を繰り出させると、音楽的受容能力はけっこう寛容な方だと思う私でも、「これが四人囃子なのか」と思ってしまう。まぁ、ジェネシスだって同じ頃に、70年代前半の頃とは似ても似つかぬポップな音楽をやっていた訳だから、これだって、聴き込めば「四人囃子らしさ」はみえてくるのかもしれないが、ここで展開されたダークで金属的なアンサンブルは、やはりかなり違和感があると云わざるを得ない。
 四人囃子といえばやはりバンドを構成する各メンバーの名人芸みたいなところが確実にあった訳だし、ここでは打ち込みを主体としたサウンドは、四人囃子として新たな個性を感じる前に、当時のトレンドに四人囃子が塗りつぶされてしまったような、ある種匿名性が高いサウンドに感じてしまうのだ。

2010年8月19日 (木)

四人囃子/Neo-N

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 キーボードの坂下秀実が脱退し、サポートとして茂木由多加が参加した1979年の第5作。内容的には前々作のプログレ・ハード、前作の「ホワイトアルバム」的なポップなヴァリエーションに変わって、大胆にニュー・ウェイブ&テクノ・ポップ的な音楽にシフトしているの。1977年の森園勝敏脱退後、3作目にして「これがあの四人囃子か」と思わせる仕上がりである。
 音楽的にはジョン・フォックス時代のウルトラヴォックス、マガジン、そしてクラフトワークあたりの影響が大なのは一聴して明確であり、そこにここ2作で明らかになってきた、ジェネシス的なシンフォニックさやブランドXのテクニカルさを散りばめたといった感じだろうか。ともあれ、1979年頃といえば、日本でもロックは大激動期だった訳で、こうした影響が四人囃子のようなバンドにまで波及しているあたりに当時の激震振りが感じられようものだ。

 1曲目は「Nocto-Vision For You」、いかにもテクノくさいガムラン風なシーケンス・パターンにハードギターエッジを絡めた折衷的な作風だが、全く付け焼き刃な感がないのはさすがだ。2曲目の「Nameless」はヴォコーダーで作られた機械的コーラス、引きつったようなリズムなどDevoっぽい仕上がりで、3曲目「Nervous Narration」はニューウェイブ・ポップ風なガサツな音づくりが逆に新鮮。4曲目「Notion-Noise」はようやく現れたという感じの重厚なプログレ作品で、「システム・オブ・ロマンス」あたりのサウンドを思わせる感触もある。
 旧B面に入り、まず「9th Night」「Neo Polis」は、多少テクノくさいがほぼ前2作ラインの佐藤ミツルのボーカルをフィーチャーした正統派ともいえる作品。3曲目の「Nile Green」のアコースティック・ギターをフィーチャーしてトラッドっぽい仕上がりも、ある意味従来の四人囃子らしい作品ということもできるだろう。4曲目「N.P.K.」は再びギクシャクしたニューウェイブ的リズムと、四人囃子的な抒情が不思議な調和を見せるユニークな作品で、5曲目の「♯」はヴォコーダーのコーラスとシンフォニックな展開が奇妙に交錯する、これもまた新旧四人囃子が混在したおもしろい作品になっている。

 という訳で、本作をざっくりと眺めると、いきなりニュー・ウェイブ/テクノ的音楽で、ドーンとイメチェン振りを披露してはいるものの、中間部では従来の延長線にある音楽も十分収めているし、後半ではその両者を上手にバランスしたような作品で構成しているから、実はそれほどとんでもないイメチェンでもないことが分かるのだが、冒頭数曲で展開される音楽がかなり強烈なため、当時のファンからはかなり抵抗があったには違いない。当時の本作のセールスがどの程度だったかはよく分からないが、おそらくそれほど売れなかったのだろう。そのせいか、本作は最後の「四人」囃子の作品になってしまうことになる。
 ともあれ、ややとっ散らかった感もあった前作に比べると、本作はテクノ/ニューウェイブ的なコンセプトできっちりと全体を統一し、タイトなまとまりを見せた作品になっている。四人囃子の面々は出来上がったコンセプトの元で、いわば職人に徹したうまみをみせていて、実は四人囃子の全アルバム中、ほとんど最高の完成度を見せているのではないかと思う。また過去を吹っ切ったような潔さと、それが故にテンションも特筆すべき点だと思う。


2010年8月13日 (金)

森園勝敏/エスケープ

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 1980年録音のソロ第3作。本作から自らをリーダーとするバンド、Bird's Eye View(BEV)を立ち上げたようで、これはその第1作ということにもなる。本作では前2作では、かなりフィーチャーされていたブラス隊がひっこみ、よりバンド・サウンドに近い音になっていて、これまでになくジャジーでアダルト・オリエンテッドな音楽になっている。とはいえ、編曲の中心となるのは、第1作「バッドアニマ」からの付き合いになる中村哲(kbd,Sax)が中核となってるため、音楽的ムードはある程度一貫してはいる(少なくとも、次に「スピリッツ」のようなイメチォン感は薄い)。今回は収録曲をちくいちメモしてみたい。

 1曲目の「キャデラック・キッド」はベン・シドランの曲で、フュージョンというより、4ビートなども交え、その後の隆盛を誇ることになるAORフュージョン的な仕上がりになっているがおもしろい。冒頭のSEなども含め、都会の夜的なお洒落なムードとアーシーさが絶妙にブレンドしていてなかなかの出来。
 2曲目の「バチスカーフ号」って潜水艦のことだろうか。そういえばメカニカルなリズム・パターンやメカニックなシンセ・サウンドがそれっぽい感じもする。その間隙をぬって、森園のギターがエレガントに歌いまくる。そのテンションは前2作より高いかもしれない。
 3曲目「サム・カインド・オブ・ラヴ」はボーカルをフィーチャーしたかなりポップな作品で、中期スティーリーダン的な趣きもあるし、次作を予告しているかのようでもある。が、聴きどころといったら、やはり中間部での聴けるギターであろう。それはまさに絶好調といった感じの天衣無縫さがあるのだ。

 旧B面、1曲目となる「ブルー・ファンク」はまろやかなムードを持ったソフィスティーケーションされたファンク・ナンバー。ある意味、森園らしい作品ともなっているとも言えるが、後半に出てくるロングトーンで奏でられるツボを押さえたギターワークも素晴らしい素晴らしい。
 後半2曲目となる「アンタイトルド・ラヴ・ソング」もボーカルをフィーチャーし、もろにスティーリー・ダン風なAOR作品になっている。ストリングスやコーラスも交えてシティ調の演出だが(途中でグルーシンの「コンドル」風になるのはご愛敬か)、森園ギターはラリー・カールトンかスティーブ・カーンかといった感じだ。。
 オーラスの「ナイト・バード」は、ストリングスやピアノを中心としたサウンドをのって、森園がジャジーなバラード系のプレイを披露する…という、これまたアダルト調の作品。本作はこれまででもっとも、AORフュージョン的な作品というのは、先に書いた通りだが、この曲もアルバムの最後を飾るに相応しいミッドナイトな雰囲気がある。

2010年8月11日 (水)

森園勝敏/スピリッツ

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 クール・アレイから一作飛び越えて、81年のソロ第4作。自らのバンドBEVを率いてのアルバムで1,2作目で展開していたレイドバックしたフュージョンではなく(三作目もその路線だった)、ウェストコーストAOR的な爽やかさ、ポップさ、そしてシャープなリズム感覚を全面出した仕上がり。ボーカルもけっこう沢山とっており、その佇まいはこれまでの作品より、あからさまに当時の「売れ筋」に焦点を定めているようにも思える。また、当時の日本製の音楽としては、精一杯がんばったウェスト・コーストっぽいAORサウンドでもあったろう。

 特に1曲目の「Give It Up Love」と2曲目「Nothing Could Ever Change -」、あと8曲目「Love In A Can」など、かなり売れ筋に意識した、AORポップなナンバーになっていて、サウンドもキラキラするようなシンセ、キャッチーなリフとリズム、ポップなコーラスなど、当時売れ線だった音楽が持っていた記号を沢山フィーチャーして、これまでの渋い音楽からすると(ついでにいうと、本作はいつものブラス隊は登場せず、シンセがカバーしている)、ちと本作は日和ったかな…と思わせるほどだ。ただ、こうしたポップな装いの狭間で、森園は意外にもかなり天衣無縫なギター・ワークを聴かせているのだから。世の中分からない(笑)。

 ムーディーな4曲目の「ナイト・ライツ」は、なんとなく「レディ・ヴァイオレッタ」を思い出させるような甘いトーンのギター・ワークを聴かせていて、当時、四人囃子ファンにとってはけっこう溜飲が下がった曲ではなかったかと思われる。またファンキーなリズムをフィーチャーして、かなりポップに仕上げた6曲目の「ストライキン」などは、久々に四人囃子時代の活気のようなものを思い出させもしたりするのだ。更に「Moon Gazer」は、例によってスティーリー・ダン風(というか、ドナルド・フェイゲン風というべきか)なサウンドだが、前作までの緩いところが影を潜め、かなりシャープなサウンドになっている点も注目される。

 そんな訳で、このアルバムを聴いていると、森園の本音というのがどうもわからなくなってくる。おそらく2枚目の「クール・アレイ」でやったようなアーシーでレイドバックした音楽というのが、彼の音楽的本音というか「本当にやりたい音楽」なのだろうが、このポップなアルバムで、聴ける天衣無縫といいたいようなギターを聴いていると、存外こっちが「本当の森園」で、むしろアダルトでレイドバックした音楽というのは、彼なりの気取りというか背伸びという気もしないでもないのだ。まぁ、どっちを好むかといったら、人それぞれだろうけれど。

2010年8月 2日 (月)

吉松隆/タルカス~クラシック meets ロック

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 この3月14日に東京で行われた「新音楽の未来遺産~ROCK&BUGAKU」という演奏会でのライブ・レコーディング。この演奏会はプログレとは何かと縁の深い吉松隆が、ELP初期に作られたあの組曲「タルカス」を三管のオーケストラに編曲して全曲演奏するという、アナクロだか、現代的なんだかよくわからない試みが話題になり、確かNHKFMでも放送されたりしている。
 ともあれ、ダイジェストなどではなく、あの一大組曲をまるまる全曲管弦楽化しているのには驚く(演奏会が企画され、編曲を進めたもの、エマーソン自身が許可がとれたのは、演奏会直前の一週間くらい前だったというのは笑えたが…)。演奏は東京フィルハーモニー管弦楽団、指揮は藤岡幸夫、ピアノ中野翔太という布陣だ。

 一聴した印象としては、良くも悪しくも原典を忠実に管弦楽化したという感じで、かの曲を寸分違わずオケで再現するというのは、それ自体かなり意義のある試みであるには違いないし(こういう例はおそらく世界最初の試みではないか?)、時にドラムのフィルやオルガン・ソロのフレーズに渡るまでオケで逐一、忠実に再現しているのは、かの作品に対する並々ならぬ愛情を感じさせたりもするものの、聴いていてその執念に感心する反面。どうせフルオーケストラで演奏するなら、オリジナルから一歩跳躍した大管弦楽ならではの妙味というのものまで感じさせて欲しかった…という印象も持たざるを得なかった。
 とはいえ、こういう試みが欧米に先立って、極東の日本でなされたというのは、ある意味凄いことではあるには違いない。しかもオーケストラの編曲はおそらくエマーソンがかの作品を作曲した時に、漠然と脳裏に思い描いたであろうオーケストレーションより、遙かにモダンでダイナミック、かつ非西洋的な仕上がりである。また、エマーソンの意を汲んでか?、途中ヤナーチェックばりになったり、プロコフィエフ臭くなったり、ジョン・バリーの「ゴールドフィンガー」っぽい金管咆哮になったりするのは、きっと吉松のエマーソンに対する一種のリスペクトであろう。聴いていて、思わずにやりとさせられる。

 フィルアップとして収録れたのは黛敏朗の「舞楽」(当然、これは編曲していない)。ドボルジャークの有名な弦楽四重奏曲「アメリカ」をオケとピアノのために編曲したもの(吉松はこれをReMixと呼んでいる)。そして吉松自身の作なるプログレへのオマージュが随所に封じ込められた作品として、けっこう有名な「アトム・ハート・クラブ組曲#1」である。
 「舞楽」は黛の代表作のひとつだが、王朝風な和の響きを近代オーケストラに精緻にシミュレートしつつ、次第にそれらを超えたダイナミックな音響へと発展していく作品で、「アメリカ」はジャズっぽいピアノが入っているせいか、なんとなく「ドボルジャーク・ミーツ・ガーシュウィン」みたいな雰囲気がある編曲だ。また「アトム・ハート・クラブ組曲#1」は第1曲が「タルカス」風、第4曲がブギウギ的だったりするが、全体としては飄々とした雰囲気をかもしだしつつ、エネルギッシュに進んでいく現音作品といえる。


2010年7月28日 (水)

森園勝敏のソロ二作

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・バッド・アニマ
 プリズム脱退後の1978年に制作されたソロ第一作。プリズムのようなスポーティーなフュージョンではなく、ブラス・セクションをフィーチャーし、ブルース色やファンキーっぽさを表に出したけっこう渋い仕上がりである。実はこの作品も初めて聴くのだが、一聴した印象としては、ちと趣味性に走りすぎて地味になってしまったような感もないではない。聴く前の予想としては、もう少し「レディ・バイオレッタ」のような、快適フュージョンのような曲があるのかとも思ったが。どうもコンセプト自体そういう方向は眼中になったようだ。
 まぁ、なんていうか、昔の言葉でいえば、ひたすらレイドバックした音楽をやっているという印象なのだが、どうせこういうアーシーな音楽を指向するなら、もう少し本場っぽいコクや濃さが欲しかったという気もするし、なにしろ、もう少しギターを聴かせてくれてもよかったろうと思う。とりあえず、本作で四人囃子的なプログレセンスが感じられる作品といえば、やはりB面の「ハイタイド」と「スペーストラベラー」あたりだろうか。こういうくぐもっていて、しかも浮遊するようなセンスは、四人囃子というより、やはり森園のものだったのだ。

・クール・アレイ
 「バッド・マニア」に続くソロ第2作(78年)、前作はそれなりにヒットしたらしく、それを受けて本作では当時流行ったLA録音が敢行された。参加したメンツは知らない人ばかりだが、ジム・ケルトナーが参加しているのは豪華ではある。音楽的にはブログレ的な1曲目だけはちょっとギョっとするものの、残りの曲はほぼ前作ラインのレイドバックしつつ、ちょっとアーシーな色づけをフュージョンといったところ(前作同様アレンジが中村哲のせいもあるだろう)。もちろんブラス隊も参加している。また、今回は本場のミュージシャンの参加を得たせいか、音楽的には前作以上にメリハリがあり、森園も一ギタリストに徹したプレイを聴かせるのはうれしいところだ。
 ちなみにカバーが何曲か収録されていてるが、どれもアメリカ産の渋いものばかりというのはおもろしい。ひょっとする海外でのセッションだったから、あえてこういう曲を取り上げただけなのかもしれないが、やや線は細い感はあるものの、なかなか堂に入ったプレイではある。いずれにしてもこういう曲をやりたかったギタリストが4人囃子でギターを弾いていたのは、振り返ればおもしろいことである。

2010年7月23日 (金)

プリズム/プリズム

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 四人囃子以降の森園の活動に興味が沸いたのでSACDを購入してみた。私はプリズム自体をほとんど聴き込んでいないクチで、このデビュー作も多分初めて聴いたものだが、一聴して70年代後半のRTF、そしてアル・ディメオラあたりの影響をモロに受けたテクニカル・フュージョン+英国のブランドXやアラン・ホールズワース周辺のプログレ風味といった感じの音楽になっている。デビュー作ということで配慮したのか、旧A面には割とポップでキャッチーなナンバーが4曲ほど並んでいるが、旧B面になると一気にごりごりとしたテクニカルさが全開になるという構成になっている。メンバーは和田アキラ(gt)、渡辺建(b)、伊藤幸毅(k)、久米大作(k)、鈴木リカ(ds)に森園が加わった形だ(つまり、ダブル・ギター&ダブル・キーボードだったということか、考えてみれば凄いことである)

 収録曲ではやはりB面の3曲が聴き物だ。「ヴァイキング2」はギターととシンセのトリッキーなユニゾンが、いかにも70年代後半のフュージョン・シーンの熱気を甦らせてくれてるような曲で、転調後やにわに入ってくるストリング・シンセの音色がいかにも70年代末期の香りがする。8分近い「ターネイド」は全編のハイライトか。この曲などまさにディメオラそのものといった感じの、スパニッシュ風なテイストを取り入れたテクニカルな作品で、思わずキーボードまでヤン・ハマーしてしまっている。途中、少しだけ和田と森園のギターのインタープレイが聴かれるのは楽しい。ゴリゴリとした攻める一方の和田に対し、森園は地味ながらエレガントな受けで返しているあたりはさすがだ。「プリズム」もトリッキーなキメが連打するテクニカルな曲で、本アルバム中ではもっとプログレ風というか、ブランドX的な激辛感のある演奏になっている。和田のギターはジョン・グッドサルかジョン・エサーリッジという早弾きを披露しているのには、思わずニヤリとさせられる。

 ちなみに、当然といえば当然なのだが、プリズムはあくまで和田アキラが主導したバンドであるため、森園はほとんどサイド・ギター扱い、堅実というか、はっきりいってほとんど目立たないプレイで、印象は地味そのものである。とはいえ、プロに徹したギターのカッティングなど、過剰負担だった四人囃子から離れた場所で得たある種の開放感だったのだろうか、実に小気味よいプレイにはなっている。また、渡辺建の弾くベースの表向きゆったりとした構えとは別に、存外アグレッシブさをも内包したグルーブ感はこのバンドに独特のノリを与えていると思う。旧B面のアグレッシブな3曲では、日本人離れした安定したプレイを展開していて出色のプレイになっていると思う。

2010年7月17日 (土)

四人囃子/包(Pao)

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 前作「PRINTED JELLY」と同じ佐藤、岡井、坂下、佐久間というメンツで制作された1978年の第4作。76年の「ゴールデン・ピクニックス」、77年の「PRINTED JELLY」、そして78年の本作と、毎年アルバムをリリースできたというのは、途中、支柱だった森園の脱退の憂き目に遭いながらも、四人囃子自体の活動はかなり順調だったということなのだろう。

 収録曲は全10曲。基本的には前作ラインのプログレ・ハード的なサウンドをベースに、更にポップなセンスを加味した音楽という感じか。また、いちばん長い曲でも5分半だから、時流に乗ったサウンドのコンパクト化、曲のポップ化が進行していたことは明らかだが、同時にそのスピード感、ソリッドな趣きは更に倍加し、特にドラムとベースがフュージョン的なテクニカルさ、アグレッシブさ表に出ていることも注目される。

 アルバムは、佐藤ミツル作の「眠たそうな朝には」から軽快に始まる。前作のハード・ポップさをより推進したような曲だが、ドラムとベースがフュージョン的なテクニカルさを見せているのがおしろい。78年といえばああいうリズムがヒップな時代だったのだ。2曲目の「君はeasy」は岡井の作品だが、こちらはアメリカン・ロック的な開放感が印象的な作品になっている。また、旧A面の最後の「Mongolid-Trek」はブランドX的なテクニカルさをベースにした素っ頓狂なインストになっている。

 旧B面に入ると、今度はいくらかテクノやニューウェイブ・ポップ的な趣きにアグレッシブなリズムを加味した「機械仕掛けのラム」が始まる。これは佐久間の作品だが、こうしたセンスはおそらく次作で大きく展開されることになるのだろう。また、8曲目の「ファランドールのように」ではヨーロッパ的なポップセンスも見せたりする。9曲目の「クリスタル・ボム」は前作ラインの曲だが、四人囃子らしいユーモラスなところをきっちりと抑えているのはさすがだ。

 という訳で、本作では4人メンバーがそれぞれ曲を持ち寄って作られた結果、かなりバラエティーに富ん作品群が入ることにはなったが、その分ややとっ散らかった出来になったのもまた事実だろう。当時の音楽シーンやバンドの状況からしてこうなるのは、ある意味必然だったのかもしれないが、ラスト「Vuoren Huippu」のようなプログレ風味がアルバムにもう少しあってもよかったように思う。

2010年7月10日 (土)

四人囃子/From The Valuts 2 「`73 四人囃子」

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 ディスク3は「`73 四人囃子」という78年に発表されたライブ・アルバムの全長版という体裁になっている。このアルバムはソニーから四人囃子が再デビューしたのをきっかけに、その前に所属していた東宝レコード(「一触即発」と「20歳の原点」をリリース)から、メンバーの承認も得ないで発表されたといういわく付きの作品だった。このボックス・セットが発売されるまでは、最初期の四人囃子を伝えるほとんど唯一のライブ・パフォーマンスでもあった。

 データ的なことを書いておくと、1973年8月俳優座でのハフォーマンスを収録したもので、これはほぼ「20歳の原点」と同時期、「一触即発」に先だった収録だったことになる(「一触即発」は74年の2~4月に収録)。本来FMのオンエアもしくは制作資料として収録されたものらしく、どうやらメンバーはこの演奏を自分たちのベスト・パフォーマンスだとは考えていなかったようで、それを5年も経ってから唐突にリリースされたことに不満を感じていたようだ。

 収録曲は「おまつり」「中村君の作った曲」「泳ぐなネッシー」「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」「一触即発」の5曲で、オリジナルとは曲順も当時のパフォーマンス通りに復元されているようだ。この時点で、既に「泳ぐなネッシー」や「空飛ぶ円盤」を演奏しているのは興味深いところだが、要するに、四人囃子のデビュー作は、当時既に揃っていたいくつかマテリアルから、とりあえず「おまつり」と「一触即発」を選び、それに何曲かプラスして構成されたアルバムというところだったのだろう。

 演奏はとても素晴らしい。森園のMCはまるで学園祭みたいなノリだが(笑)、それとは対照的に演奏はかなり練達そのもの。ギターの森園はもちろんだが、ドラムスの岡井大二とベースの中村真一のコンビネーションが素晴らしく安定しており、まさにライブで鍛え抜いたといった感じのパフォーマンスである。ラストの「一触即発」など、そのパワフルさに日本的なワビサビを違和感なくライブで共存させていて、当時の日本のロックが確実に第二世代を迎えていたことを実感させる。

 最後に音質について書いておくと、一応ボード録音なので、当時の水準はぎりぎりでクリアしている。ただし、バランス的にどうかと思うところは散見するし、全体にSNが悪く、サウンドが飽和気味になってしまうのは惜しまれる。ただし、この音質で当時の四人囃子のハフォーマンスが聴けるのは、今となってはよくぞ残しておいてくれた…といった感が大きい。少なくともディスク4と5に収録されたエア録音に比べれば、その差は歴然である。

2010年7月 7日 (水)

四人囃子/From The Valuts 2 「20歳の原点」

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 このところ四人囃子やフライドエッグなど70年代前半の和製ロック?が妙に懐かしくなってしまい、外でも自宅でも愛聴しているところなのだが、その勢いにのってこのボックス・セットも購入してみた。四人囃子の蔵出し音源を集めた5枚組だが、「2」とあるだけにその前があって、そちらは四人囃子の全活動期間からまんべんなく音源が集められていたようだが(私は所有していない)、この「2」は森園在籍時の音源を集めている。

 今日はその中からディスク2を聴いてみた。主に「20歳の原点」からの曲を収録している。かの作品は映画のサントラ的な位置づけで発売されたせいか、高野悦子を演じた角ゆり子のナレーションなどが入っていたが、ここではそれらの一切カットし、フェイドアウトされていた部分は復元するなど、いわばカンパケ一歩手前のヴァージョンが収録されている格好になっている。要するに四人囃子の音楽だけに焦点を当てた編集となっている訳だ。

 このアルバムは発売して、大分経ってから聴いたような気がするが、内容的には全くピンと来なかったという記憶しかない。あまり覚えていない。どうしてそうなったのかといえば、聴いてみれば明らかだが、本作のほとんど「そのまんまフォーク的」なところだったのだろう。当時の私は「アンチ四畳半フォーク」だった渋谷陽一氏のせいもあったのだろうが、この手のフォーク(ついでに演歌も)が大嫌いで、敵視すらしていた実に狭量な高校生だったのだ(笑)。

 そんな訳で、本作はもうほとんど初めて聴くような印象である。2,3曲をのぞいて、大半は森園の弾き語り状態、いくらか内省的ではあるが、ほぼ完全なフォークである。だが、今聴くとこれがすごくいい。表向きフォークといっても、実は「ホワイトアルバム」だったり、アルバム「マッカートニー」っぽかったりするのだし、もうフォークだ演歌だのといったジャンルで音楽を敵視するような歳でもないから、収録曲全てから感じられる、70年代初頭独特の虚脱したようなムードは、抵抗がないどころか、なんとも身体に馴染んでしまう。

 「20歳の原点」というアルバムは、彼らが「一触即発」を作るために請け負った…いわばやっつけ仕事的にスタジオで録音されたというのは有名な話だが、逆にそれ故に四人囃子(というか森園)の、気負っていない音楽的素地が出ているといえるかもしれない。誰もがいうことだが、その意味でフロイドの「モア」「雲の影」などと近い感触がある。


2010年7月 1日 (木)

四人囃子/PRINTED JELLY

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 四人囃子については、ほぼリアルタイムで「ゴールデン・ピクニックス」までは聴いたが、リーダーの森園勝敏の脱退に伴い興味半減、それ以降の彼らについては全くといっていいほど聴いていなかった。なので、実は「ゴールデン・ピクニックス」の翌年に早々と発表された本作も、実は今回初めて聴いたことになる。一応、クレジット関係をさらっておくと、脱退した森園に替わってギターとボーカルに佐藤ミツルが参加し、残り3人はキーボードが坂下秀実、ベースが佐久間正英、ドラムスは不動の岡井大二という布陣で1977年に制作された作品ということになる。

 なにしろ、バンドのギタリストとしてはもちろんだが、主要な作曲やボーカルまで担ってきた森園が抜けただけに、音楽的陣容としてはかなり変化している。ここでは70年代初頭のニュー・ロック的な雰囲気が一掃され、ソリッドなサウンドをベースにしつつも、ポップなセンスもそれなり露出していくという音楽になっている。もっともこうした方向性は実は前作からの流れだった訳で、そういう視点から聴いていけば、それなりに納得できる仕上がりだという気もする。なにしろ当時の音楽シーンは、スタイルとしてのニューロックやプログレが次第に陳腐化し、こうしたバンドは四人囃子に限らず、おしなべてポップで明るく…という音楽的なイメチェンを図り始めていたから、これは当時の音楽的潮流でもあった。

 音楽的には前述の通り、かなりポップに衣替えしてはいるものの、意外にも四人囃子らしい浮遊感(「シテール」「気まぐれの目かくし」)やある種の日本的な可愛らしいさ(「ハレソラ」)といったテイストは健在という印象である。新加入の佐藤ミツルだが、ソリスト指向が強かった森園に比べ、ハードなエッジで切り込むリフに特徴があり(「N★Y★C★R★R★M」)、スペイシーなソロなどもとるが、情緒的にはドライなプレイになっている。ざっくりいってしまうと、森園のギター・ワークがプログレっぽいエリック・クラプトンだとすると、佐藤はポップなジミー・ペイジといえるかしれない(ボーカルの頼りなさはどっちもどっちだが)。

 というわけで聴いていると、必ずしも四人囃子と状況的には同一な訳でもないものの、デビッド・アレン、スティーブ・ヒレッジなど主要メンバーが脱退したゴングが、その後残ったメンバーでもって、意外にも従来のゴングらしさを保持したまま、いくぶんポップで、開放的な雰囲気を持った傑作「シャマール」を、ものにしたことを思い出したりもする。同じ頃のジェネシスもそうだったが、思えば、本作も音楽シーン全体がそうした過渡期にあった頃の作品だった訳だ。

2010年6月24日 (木)

MARILLION / Somewhere Else [2]

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06 A Voice From the Past
 前半のハイライトだったタイトル・トラックを受けて(この継続感はアナログのA面とB面の配列という呼吸を感じさせる)、やはり暗い抒情とある種の追憶を感じさせる情感がただよい、またそこはかとない哀感を感じさせる曲である。全体に起伏かなだらかで、音数も少ないあたり、これまた前作「Marbles」の余波のような雰囲気を感じさせるが、次第に分厚いサウンドへと発展していくあたりの段取り感は、旧来のマリリオンらしさがにじみでているともいえるだろう。ハイライトでここ一発という感じ登場するギターなどもいい感じである。

07 No Such Thing
 こちらは今風なギター・ロック風な音楽。ちょっとレディオヘッド的屈折や浮遊感を感じさせるボーカルとサウンドでもある。それにしても、ここまで聴いてきて思うのだが、本作には「Anorak」まで聴かせてきた、シャープでエッジの効いた光沢のあるサウンドというのがほとんど出てこない。おそらく前作を転回点として、マリリオンはそのサウンドの肌触りをかなり変化させているようだ。考えてみればマリリオンも既に20年選手な訳だから、そろそろ枯れてきたというところなのかもしれないが。

08 The Wound
 アップテンポで進む比較的伝統的なマリリオン風なダイナミズムを感じさせる作品。ただし、やはりサウンド的には60年代回帰というかガレージ風な肌触りもあって、前作の余波のようなものを感じさせる。曲としてはファンタスティックなアルペジオが良いアクセントになっているし、後半、あれこれ目先を変えて進んでいくドラマチックな展開は、正直いうと今一歩不発な感がなくもないが、きっとライブなどでは盛り上がる曲なんだろうな…などと思ったりもさせる。

09 The Last Century For Man
 これもマリリオンらしいメロディックさが発揮された曲だが、サウンドの方はレズリーを通したギターやスカスカなドラムス(あきらかにリンゴ・スター風であり、モズレーは実に楽しんでそれをやっている感じだ)など、やはり60年代回帰っぽいサウンドだ。後半にちょっと「ミスター・カイト」を思わせるドリーミーでファンタスティックなサウンドへと発展していくが、あたりも展開はなかなかおもしろいものがある。

10 Faith
 これまたビートルズ風な曲。アコギのイントロは「ブラック・バード」を思い出させる淡々とした風情で進んでいくが、中盤からバンドサウンドになり、ちょっとバカラック風なリズムを盛り込んで、ポップに進んでいき、アルバムのラストなにのけっこうあっさりと終わってしまうのはちょっと意外な感がなくもない。このあたり、おそらく近年のマリリオンというよりは、おそらくオーガスのセンスなのだろう…。私は未聴だが、ホーガスのソロ・アルバムも出しているで、そこではおそらく本作のような音楽をやっているのではないだろうか?。そのくらい本作ではホーガスのセンスが強く露出している…と私は感じた。

2010年6月23日 (水)

MARILLION / Somewhere Else [1]

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 2007年に発表されたマリリオンの第14作。前作が久々のコンセプト・アルバムで2枚組という重量級な作品であったの反動か、本作は比較的コンパクトでリラックスされた作品を中心を構成された「軽い作品」になっている(収録時間も60分もない)。また、一聴した印象では、これまでのバンド指向のようなものは一歩後退させ、おそらくスティーブ・ホーガスの音楽的な趣味で全面に押し出したような仕上がり…といえなくもない。したがって、本作では従来のプログレ的なところは影を潜め、ビートルズをメインとした60年代回帰、今時なギターロック風サウンド、これまでになく表に出た音楽となっている。それでは収録された全10曲を軽くメモしておきたい。

01 The Other Half
 いきなり60年代のサイケ調だった頃のビートルズっぽい曲(「マジカル・ミステリー・ツアー」あたり)曲で始まる。ある意味、前々作あたりまでのノリが再び帰ってきた感じもするが、中間部が聴くことが出来る透明でゆったりとした広がりのある部分や、ますますレイドバックしたサウンドなどは、多分に「Marblers」のムードを引き継いでいるともいえる。マリリオンらしい部分としては、後半のコーラスの繰り返し、そしてハイライトで現れるギター・ソロあたりということになるだろうか。

02 See It Like a Baby
 これもかなりサイケ的なサウンドだが、前々作に多数聴かれたアンビエント/テクノ系な要素を隠し味に使った「古くて新しいサウンド」になっている。コリコリとしたベースの音と浮遊感のあるピアノ、そしてリムショットで組み立てられたリズム・パターンなどが実に気持ち良く響く。また、ぐっとサウンドが広がるコーラス部分もマリリオンらしさとの取り合わせもいい。

03 See It Like a Baby
 基本的にはマリリオンらしいメロディックな作品だが、これまたビートルズ、というかレノンに近い感じの暗い抒情や60年代的なサウンドをベースにしているせいか、いつもとはちょっと違った感じに聞こえる。また隠し味的に大仰なメロトロンなども聴こえるし、プログレ的なドラマチックさもある。マリリオンといえば元々はプログレ・バンドだったのだが、驚くこともないのだが、やはり近年のマリリオンは音楽的にかなりコンテンポラリーになっていたことを改めて感じさせる。ホーガスが実にいい味のボーカルを聴かせる。

04 Most Toys
 わずか2分半で終わる、ちょっとクレイジーでカオスなような雰囲気のある曲。今時なギターサウンドといった感じの仕上がりだが、こういうのはやはりホーガスのセンスなのだろうか。ともあれ、ここ数年、マリリオンはこういうモダンな曲をやるようになってきていることは確かだ。モズレーのドラムも数作前とはかなり質感の違う、ガレージ風な録音になっている。

05 Somewhere Else
 本作では比較的長目の曲で、こちらはいつものマリリオンらしい暗い抒情が曲を覆っている。前半はピアノ主体にしたなだらか起伏で比較的淡々と進んでいき(このあたりは前作の雰囲気が濃厚に感じられる)、やがてギター・ソロから後は徐々にサウンドが厚くなって、やがてマリリオンらしいドラマチックかつシンフォニックな展開になっていく。さすがにタイトル・トラックらしく力が入った仕上がりだが、こういう曲だと何を歌っているのか詮索したくなったりもする。

2010年6月16日 (水)

四人囃子/2002 Live

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 2002年に行われた"森園"四人囃子のリュニオン・ライブである。メンバーは森園勝敏、岡井大二、坂下秀実というデビュー作の布陣である。私はよく知らないのだが、四人囃子は80年代の終盤からライブなどでは散発的に再結成を繰り返していたらしいが、この2002年の復活はこうしてアルバムを出していることからも分かるとおり、かなり気合いの入ったものだったらしい。収録曲はデビュー作「一触即発」と「ゴールデン・ピクニックス」から名曲で大半が占められていて、それ以降の作品や新曲の類は全く入っていない。潔い選曲というべきだろう。

 まぁ、こうした経緯もあってか、内容は基本的に「懐かしの再結成」みたいなものである。ただし、前述ののようにそれなりに準備期間というか、馴らしの活動期間があったせいだろう、「旧友の再会セッション」的な即席感やくたびれた感じは全くなく、非常に充実している。特に森園の円熟のギター・ワークが問答無用の素晴らしさである。往年の彼はクラプトン、サンタナ、ギルモアなどの影響があまりにもあからさまな、日本製ギタリストだったけれど、これだけの年月が経た現在、もうそんな影響云々はどうでもよくなってしまい、「森園のギター」だけが聴こえてくるのは、森園自身の変化もさることながら、やはりリスナーの方の受容姿勢が今やすっかり様変わりしていることも大きいと思う。

 演奏には70年代のナイーブさやシャープさは当然にない。メンバーが50代後半なのだから、当たり前である。ただし、その分、練達のテクニックと経験でもっで、往年の曲を実に大らかにバンド自身が楽しんで演奏しているような老獪で円熟した良さがあり、聴いていてオリジナルから不足感や欠落感といったものをほとんど感じさせないのはさすがだ。例えば「泳ぐなネッシー」など、さすがにテンポが上がってからの、目まぐるしい展開は、オリジナルに比べると多少もっさり感があるものの、ここで聴けるちょっとモヤとしたようなうねりのような感覚は初期の四人囃子そのものであり、ここに当時より数段豊穣なフレージングを聴かせる森園のギターが入って、結果的には昔よりこちらの方がいいんじゃないかと思わせたりするくらいだ。

 また、昔も今のステージのハイライトに登場するらしい「一触即発」の前曲から切れ目なしにスタートするが、原曲にあったフロイド、パープル、ELP、サンタナのあからさまなコピーみたいなところは、既に確実に昇華され、現在ではスタンダローンな名曲としての、風格すら感じさせるような演奏になっているのも、やはり時の流れを感じずにはいられない。また「レディ・ヴァイオレッタ」もオリジナルのフュージョン風なところはぐっと後退させ、森園のロック的ボキャブラリーで再構成したようなアレンジになっていて、前後のプログレ風な曲と並べても違和感のない演奏になっている。それにしても、この曲はプログレというよりも、明らかにフュージョンといった趣の曲だが、いずれにしても日本のギター・インスト史上に残る名曲だと思う。

 アルバムのラストには「CYMBALINE」が演奏されている。70年前後のフロイドのステージ・ナンバーとして一時ファンには有名だった曲だが、おそらく70年代に四人囃子はステージで頻繁に取り上げていたのを再現したというところだろう。四人囃子はフロイドの影響が濃厚なバンドだったから、さぞやフロイド的な演奏になっているのかと思いきや、彼らほどにはシュールでも特有な浮遊感かある訳でもなく、もう少し日常的な幻想風景を見せてくれるあたり、逆に四人囃子という「日本のバンド」の個性が出た瞬間といえなくない。という訳で、このオマケの一曲も含め全編に渡って非常に充実したライブ・アルバムである。ファンならめっぽう楽しめること請け合いだ。


2010年6月13日 (日)

TANGERINE DREAM / Live In Bilbao`76 Pt.1 (The Bootleg Box Set.1)

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 前回取り上げたクロイドンでの公演から約3ヶ月後、1976年1月のスペインはビルバオのパフォーマンスである。この時期のタンジェリン・ドリームはツアーで忙しかったのか、結局1974年の「ルビコン」から1976年「ストラスフィア」までの間は結局スタジオ録音のアルバムを残さなかったことになる。もちろんその間「リコシェ」があり、もう何度も書いているとおり、あのアルバムはこの時期のライブ・パフォーマンスの「最良の部分のみを再構成した」アルバムだから、まぁ、半分スタジオ録音といえないこともないのだが…。
 いずれにしても、1975年という年のタンジェンリン・ドリームはおそらく音楽的な充実度という点ではひとつのピークを迎えいていたことはほぼ間違いなく、この時期に彼らが入念なスタジオ・ワークでアルバムを残さなかったのは、むしろ彼らのために惜しまれるものである。

 さて、本パフォーマンスだが、意義面からいえば「リコシェ」と「ストラスフィア」と間隙を埋める演奏記録ということが出来ると思う。この時期のタンジェリンの布陣でいうと、バンド内のテンションは「リコシェ」の時がピークであり、この後は彼らはかなり急速に緊張感を失い、自己の作り上げたスタイルの再生産をするようなる…というが、私の考えだが、このパフォーマンスでもそのあたりが随所に伺えような気がする。
 冒頭の約10分は「リコシェ:パート2」の前半の抒情的空間を入念に開陳し、そこからややシュールな音響を経て、同じく「リコシェ:パート2」の後半風な遠近感のあるパーカスにのってメロトロンが活躍する場面となり、やがてシンセ・ベースなリズムが導入、そしてお得意のパターンとなっていく訳だ。もちろん「リコシェ」直近のパフォーマンスだから、まだまだ演奏の覇気やテンションは十分に高いのだが、なんというか、スタイルとして飽和点に達してしまっていて、今までの手の内であれこれやりくりしている感が強いのである。

 ひどい邪推だが、彼らは「リコシェ」を作るにあたって、あれこれと展開された自己のパフォーマンスから、最良な部分を選別しつつ、逆にそれがバンド内に刷り込まれてしまったのではないか。このパフォーマンスを聴くと、既に「リコシェ」で聴いたことがあるような音ばかりなのである。1977年に出た「リコシェ」の夢よ再びという感じで購入してきた「アンコール・ライブ」では、バンドのテンションのあまりの降下ぶりに、愕然としたものだが、この時にその萌芽はあったといえる。
 さて、このパフォーマンスの後半であるが、シンセ・リズムの王道パターンの中、やがてギターがフィーチャーされ、この時期特有の狂おしいテンションが感じられる素晴らしい演奏になっていく、このあたりは最盛期ならではものといえるだろう。ちなみにこのパートでは、最後の最後までシンセベース風のリズムが途切れずに鳴っているが、このパターンは多少珍しいかもしれない。

2010年6月 9日 (水)

DARRYL WAY'S WOLF / Saturation Point

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 ウルフは1973年、カーブド・エアからヴァイオリンをもっと弾きたくて脱退したダリル・ウェイによって結成されたインストバンドである(ヴォーカルが入っている曲がないことないのだが…)。メンバーはギターにジョン・エサーリッジ、ドラムがイアン・モズレー、ベースにデク・メセカーという布陣で、当時は全くの無名なミュージシャン達だったが、ウルフ解散後にそれぞれソフト・マシーン、トレース、キャラバンといったバンドを加入するのだから、実力的には指折りの面々であった。
 アルバムは3枚ほど残したが、やや方法論として行き詰まった感のある3作目「Night Music」はともかくとしても、残りの2枚については、ヴァイオリンをフィーチャーしたロック・アルバム…、否、非ジャズ系のインスト・プログレの傑作といってもいい仕上がりだったと思う。

 さて、本作だが1974年に発表された第2作である。1作目の「Canis Lupus」はプロデューサーにキング・クリムゾンのイアン・マクドナルドを招聘して、全体としてはリリカルな叙情性と暴力性が奇妙に交錯する作品だったが、本作はよりメンバーの音楽嗜好をビビッドに反映させ、クラシカルセンス、ジャズ的なセンス、そしてテクニック至上主義のようなものが曲毎に明らかになったところに特徴があった。
 それは「The Ache」「Saturation Point」「Toy Symphony」という3つの曲に結実されているといっていいだろう。「The Ache」では、ヴァイオリンとギターの執拗なユニゾンといい、その間隙をぬうように現れる短いソロのテクニカルさといい、このバンドの技術的な水準の高さを見せつけるような曲になっているし、「Saturation Point」ではジョン・エサーリッジがフィーチャーされたソフト・マシーンやブランドXを思い起こさせるジャズ・ロック、叙情性と激しいテンションが一体となって文字通り「ちいさなシンフォニー」を形成している「Toy Symphony」のクラシカル・センス....といった具合である。

 ついでにいえば、本作はこの3曲の傑作に加え、いまひとつの名曲「Slow Rag」がある。日本人好みのメランコリックな旋律に、アコギとヴァイオリンの洗練されたインタープレイを織り込んだ、本作でも一際忘れがたい曲になっている。今ではあまり忘れられてきているが、この曲はたかみひろし氏の強烈な愛好振りによって、日本版のウルフのベスト盤に収録され、少なくとも日本においては「ウルフの不動の名曲」になったものだ。
 という訳で、この4曲でもって本作は、アルバム自体が傑作と呼ぶに相応しい佇まいを持つに至ったと思う。前作の「悲しみのマクドナルド」に匹敵する名曲が本作にはない…という指摘は当時からあったけれど、その点は認めつつも、トータルな意味では本作の方が上回っているのではないか、少なくとも私はこちらのアルバムの方をかれこれ30年以上愛好しているのだか....。

2010年6月 5日 (土)

四人囃子/ゴールデン・ピクニックス

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 76年の2作目。当時の一般的なロック・ファンはこれによって彼らを知ったという人が多かったはずだ。メジャー・レーベルから作品、メンバー・チェンジ(この間にキーボードが坂下秀実から茂木由多加、ベースが中村真一から佐久間正英となっている)、そして1976年という時代的な要請によって、彼らの音楽は1作目のようなアングラ然としたところは後退、全体にポップで明るく、どこか突き抜けたようなサウンドを展開しており、同時に音楽主義的というか、技巧主義的なところも色濃くなっていった。

 なにしろ1曲目がビートルズの「フライング」のカバーなのである。同曲とバンド自体が持つ「浮遊感」という共通点でもって選曲されたのだろうが、シンセとレズリー・ギターを駆使したカラフルな四人囃子のサウンドをもってしても、-当時からしてガチ過ぎて-ある種のあざとさを感じたくらいである。2曲目の「カーニバルがやってくるぞ」はデビュー作の雰囲気を残しつつも、かなりスピード感を上げ、相当に賑々しいサウンドになっていてバンドの変貌を思わせずにいられない。また、3曲目の「なすのちゃわんやき」はプログレ的なスピード感、変拍子を、どことなく和風で飄々とし、かつユーモラスなサウンドで表現した本作の代表作ともいえる名曲だが、この曲にも不思議なポップさがただよっている…という具合で、A面で聴ける4曲では、前作のじめじめしてアングラ風な雰囲気はほぼ一掃されていているといってもいい。

 一方、旧B面の大作「泳ぐなネッシー」は少なくともテーマの部分だけは、「かつての4人囃子」を感じさせる曲といえる。曲調が一転して目まぐるしく展開していく中盤以降は、プログレをも通り越してもはやフュージョン的なスピード感も感じさせたりもするのだが…。またオーラスを飾る「レディ・パイオレッタ」は、森園の甘いトーンのギターを前面的にフィーチャーし、ほぼ完全なAOR風フュージョン作品になっていて(サンタナ風でもあるが)、同時期のセバスチャン・バーディーのマリオ・ミーロもほぼ同様な音楽的変貌をしていたが、ともかく一作目とはほぼ別バンドの趣きの音楽になっている。

 まぁ、要するに過渡期だった訳である。周知のとおり四人囃子は本作をもって、ギターの森園が脱退して、本作の過渡期的な要素すら無効化するようバンドになっていく訳だけれど(まるでソフトマシーンのようだ)、ともあれこのままバンドが続いていたとしても、おそらくバンドはきっとプリズムのようなバンドになっていたに違いなく、その意味で、この一瞬見せた「過渡期の音楽」こそ、実は四人囃子が見せた、実は一番輝いた瞬間なのではないかと思ったりもする。


2010年6月 4日 (金)

四人囃子/一触即発

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 いやぁ、懐かしい。ここ一週間ほど思い出すと、取り出して聴いているのだが、こんなに聴くのはきっと20年振りくらいに聴くんじゃなだろうか。実に懐かしい音である。本作は四人囃子が74年に発表したデビュー・アルバムだが、私など四人囃子といえば、2枚目の「ゴールデン・ピクニックス」で彼らを知り、そこから遡って本作にたどり着いたという人も多いと思う。
 むろん私もそのひとりであるが、四人囃子はソニーから再デビューともいえる「ゴールデン・ピクニックス」を、79年に発表した時点で、初期のジャパニーズ・プログレ・バンドとしての音楽的陣容は既に終わりかけており、遡った本作で「本当の四人囃子」を知ったということなのだったろう。

 初期の四人囃子は、日本のバンドらしく影響受けたバンドの痕跡というか、盛り込まれた音楽的な情報量は実に豊富だが、70年代初頭の汎ブリティッシュ・ロック、ことにフロイド的な浮遊感に満ちた音響、そしてサンタナ的なラテン・ロックのリズムと官能をベースに、極めて日本的なじめじめとした四畳半フォークみたいな私小説的なムードを合体させた音楽だったのだと思う。
 2曲目の「空と雲」はサンタナ的なリズムと呪術的ムードをベースに、いささかシュールだが紛れもなく70年代前半のフォーク的な情緒が横溢しているし、3曲目「おまつり」では「ユージン斧に気をつけろ」に共通するようなフロイド的な幻想味が、サンタナっぽい官能性と日本的なワビサビの中に表現されいる。また、特に旧B面のタイトルトラックは、70年代前半の日本のロック状況を、四人囃子が総括したような見事な1曲である。

 当時の私は、極東在住のプログレ少年だった訳だけれど、これを聴いて「日本にプログレ・バンドと呼ぶべきバンドが存在していたこと」ことを発見して驚愕したものだった。それは垢抜けてポップなセンスでまとめられた「ゴールデン・ピクニックス」には感じられず、もっと純粋一直線だった「一触即発」だったから感じられたセンスだったともいえる。
 ついでにいえば、それだからこそ、当時(79年)本作を聴くと、なにやらどうしようもなく古臭いものを感じたのも事実だったといえる。本作は74年の録音だが、実質的には72年頃のレパートリーをまとめ上げたもので、音楽に封じ込められた時代は空気は、明らかに70年代初頭のそれであるのは間違いない。なので、私は本作聴いているとどうしても72年くらいの風景が甦ってくるのだ。

2010年5月29日 (土)

MARILLION / Marbles (Dsic.2)

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 間奏曲3「Marbles III」は、雨音みたいなピアノのモチーフにのってリズミカルに歌われる。マリリオンにしてかなりくっきりクリアな輪郭がある作品なのが珍しい。ちょっとバカラックみたいな感じもあるが、こういうのホーガスのセンスなのだろうか。
 ここからの第3部は比較的動的で親しみやすい曲が並ぶ。まず「The Damage」は、中期ビートルズみたいなサイケで、ちょっとひねったポップさがある。ホーガスがフィルセットになるあたりの展開がいかにもいかにもで楽しいし、後半の大仰なコーラスもそれ風だ。
 「Don't Hurt Yourself」も、60年代後半の香りがするフォークロック風な作品。アコギのストロークとスカスカなリズムセクションのグルーブ感がなんとも気持ちいい。

 「You're Gone」は、エレクトリックなリズムをベースにしたこの時期のマリリオンらしい仕上がりを見せた作品。マイナーで暗い抒情と不思議な高揚感が交錯している支配しているのがおもしろい。私自身は彼らのこういうサウンドは大好きなのだが、マリリオンのこうしたエレクトリックなサウンドは一般にはどう評価されているのだろうと思ったら、どうも本国では本曲はシングル・カットされて、マリリオンの久々のヒットとなっているらしい。
 一転して「Angelina」は、都会の場末のようなSEの後ジャジーなオルガンやギターなどフィーチャーして、序盤はアーシーなムードを演出しつつメロディックに進んでいく。中盤以降はディスク1のゆったりしたムードに回帰するが、きっとここで第3部は終了というサインなのことだろう。隠し味のアンビエント風味が心地よい曲だ。


 「Drilling Holes」は比較的ハード・ロックしたメインのテーマと暗鬱な悲しげなサビが交互に現れる。ちょっと一筋縄ではいかないような構成を持つ、様々な要素が現れては消えるような仕上がりになっている。ひっょとすると、このあたりで、主人公となる者の現実と追憶が混濁してくるのかもしれない…。ともあれそんなイメージをかきたてる曲だ。最後の間奏曲である「Marbles IV」は、ちょっとラウンジ風なアレンジで演奏される。
 「Neverland」は、アルバムの掉尾を飾る12分半の作品。ピアノとシンセ・オーケストラによる荘厳なイントロから、まさに「ブレイブ」を思わせるムードで、ホーガスが切々と歌う。中間部から後は、これまでの彼らにはあまり例がないような、ボーカル(ダブっぽかったりする)、バンド・サウンド共に、非常に重層的な組み立てられたかなり複雑なサウンドを展開しつつ、大河のうねりのような流れを感じさせながら、エンディングへ向かっていく。

 という訳で、このところ何度か繰り返し聴いている訳だけど、かなり味わい深い充実した音楽のように思うのだが、どうに全体がなかなか見えない音楽でもある。表層的にはかなり違うものの、こうした音楽的な歯ごたえは、まさしく「ブレイブ」のそれを思わせるもので、これはもうしつこくこれからも何度か聴いてしかないだろう。
 ちなみにシングルアルバムのヴァージョンだと、収録曲のテイク違いとかはなさそうだが、絞り込んだ曲数とメリハリある構成により、こちらはかなりとっつきやすい仕上がりになっているの注目されるところだ。彼らが公的にはシングル・ヴァージョンを残したのもなんとなく分かる気がする。

2010年5月27日 (木)

MARILLION / Marbles (Dsic.1)

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 「ブレイブ」以来の久方ぶりのコンセプトアルバムということで、ファンの間ではけっこう話題になった2004年の作品である。また、当初2枚組のフル・ヴァージョンとシングル・アルバムが同時に発表されたことでもいろいろ物議を醸し出したようだ。
 この2つのヴァージョンが、「本来シングル・アルバムであったものを2枚組に拡大したのか」「2枚組を凝縮して1枚にしたのか」、そのあたりの制作プロセスがよくわからないところもあるのだが、幸い私の手許にあったのは、既に市場に流通していない2枚組の方だったので、ここ数日、こちらをじっくりと聴いているところである。まず、第1部と第2部に相当するディスク1の方から聴いてみたい。

 アルバムはまず13分にも及ぶ「The Invisible Man」からスタート。前作までとはうって変わって、ゆったりとした大河的スケール進んでいく。もちろんこれまでの取り入れてきた様々な要素は加味しているが、この雄大な盛り上がりは、ある種の「先祖返り」を感じさせる。マリリオンというと金太郎飴サウンドなどと私自身形容しがちなのだが、こういうサウンドはしばらくやってなかったな…とつくづく思う。
 続く「Marbles I」は間奏曲風の作品。本作にはこの「Marbles」がアレンジされて4パターン入っていて、それぞれが間奏曲風の役割を果たしているようだ。ともあれ、その最初のものがコレである。トロピカルで珍しくジャジー雰囲気もあるボーカル作品になっている。

 「Genie」(シングル・アルバム未収録)はシンプルなビートにのった美しい牧歌ポップになっている。シングル・アルバムの方だとここには「You're Gone」が入り、アルバムとしてのメリハリ感を演出しているのだが、フル・ヴァージョンではこのまったりした曲で、いかにもまだまだ序盤という感じである。
 「Fantastic Place」は既視感を誘うような懐かしいムードに彩られたメロディックな作品。アンビエント・テクノ風な無機質ビートを隠し味に、徐々にサウンド厚くなり、そのピークでギターが登場する当たりの構成は見事。また、今時なサウンドの質感を漂わせつつも、全体としては70年代のシンガーソングライターの作品的な趣があるのは、ホーガスのセンスが出たからだろう。

 ここからが第2部というところだうか。まず「The Only Unforgivable Thing」(シングル・アルバム未収録)だが、これも実にゆったりした作品で、大海原を曳航するような広がりとスケール感を感じさせる仕上がりになっている。シンセの白玉にリラックスしたギター、ドラムも実にいいグルーブ感を出していて、ホーガスも実にナチュラルだ。後半は厚みを増しドラマチックに展開する。
 間奏曲その2である「Marbles II」はドリーミーというか、子守歌風なサウンドに乗って始まり、70年代っぽいサウンドへ発展してやがてメロトロンも聴こえてくる。ちなみに本作は現代の孤独の諸相をモノローグ的な楽曲と対比しつつ進んでいくらしいのだが、一連の「Marbles」がそのモノローグになっているようだ。

 ディスク1(そして第2部)の最後となる「Ocean Cloud」(シングル・アルバム未収録)は、とりあえず前半のハイライトとなる作品だろう。18分近い大作で、「プレイブ」の頃思わせる暗い重厚なムード、そしてホーガスのパッショネートなボーカルをフィーチャーして力の入った前半部分を形成、やがてギターソロが転調を重ねるあたりからいよいよプログレらしい展開を伴いつつ中間部へ突入。
 中間部はSEも挟んでスペイシーな空間を見せつつ上昇する感じで進んでいき、後半に差し掛かる骨太ロック風なサウンドになるあたり、まさに山あり谷ありのマリリオン・サウンドだ。もっとも曲そのもののが最高潮のテンションにまで至らないのは、アルバムの本当の山場はこの後…ということなのだろう。


2010年5月21日 (金)

PINK FLOYD / Obscured by Clouds(雲の影)

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 実は本作もこれまでほとんど聴いてこなかったアルバムだ。いや、全く聴いてこなかった訳でもないのだが、同時期の「おせっかい」や「狂気」に比べ、あまりにとりとめない内容に音楽的なとっかかりをつかめないまま、CDの時代に突入してしてしまい。LPは散逸といった、この作品もほとんど忘却の彼方…という経緯を辿ってように思う。
 本作のアウトラインだが、1972年、当時まっただ中だった「狂気」の録音を中断して、録音されたサウンドトラックである。あの頃のフロイドは「モア」(69年)、アントニオーニの「砂丘」(70年)のサントラを担当しており、本作もそうした流れで実現したものと思われるが、その後「狂気」のメガトンヒットもあって、フロイドが既成の映画のサントラを担当するのもこれが最後となった。

 内容的には前述の通り「狂気」の録音を中断して、2週間ほどで完成させたアルバムということで、かなりに散文的でリラックスした内容になっている(だからこそ昔は「とりとめない」と感じたのだろう)。イギリスではなくフランスで録音されたようだが、ひょっとすると、休暇を兼ねた気分転換みたいなセッションだったのかもしれない。
 音楽面では総じてギルモア色が強く、本作から数年を隔ててリリースされたソロ第一作に共通するような、比較的オーソドックスなブルースロック的なギター・フレーズや楽曲がけっこう出てくるのはおもしろい。当時のウォーターズはおそらく「狂気」のことで頭が一杯だったのだろうから、ここでの存在感の薄さはなんとなく解らないでもないが、あの時期、そしてこういう局面なら、がんばりを見せそうなリック・ライトの意外にも影が薄いのはどうしたこのなのだろう。バンド内でそろそろバンドのウェイトが低くなって現れということなのだろうか。

 最後に収録曲をメモってみたい。1曲目のタイトル・トラックではシンセの重低音にのって官能的なギターがフィーチャーされるが、ほとんど当時のフロイドがスタジオで行っていたジャムのような雰囲気であり、本作ではそうした雰囲気の曲がけっこう多い。2曲目「When You're In」もほぼ同様、6曲目の「Mudmen」はライトのフィチャーされた「狂気」のデモみたいなインストだ。オーラスの「Absolutely Curtains」は、まさにジャム風で、60年代後半のスペイシーなフロイドをもう一度思い出しているような曲でもある。
 ちなみに、本作は即席レコーディングなせいか、オーバータブがほとんどなく、その分ニック・メイソンのドラムがやけ生々しく聴こえる。やはりこの時期のフロイドといえば、様々なメルクマールはあると思うが、このとっ散らかったドラムも重要なフロイドのポイントだったと思う。それが生き生きと収録されている本作は、そう意味でも貴重な作品といえる。

 一方、ボーカル入りの曲としては、3曲目の「Burning Bridges」で「おせっかい」の旧A面にでも入っていそうな曲で、ギルモアとライトをフィチャーしている。「The Gold It's In The...」は、フロイドを逸脱してほぼギルモアのソロといってもいいようなロック色が強い作品。4曲目の「Wot's... Uh The Deal」はこれも「おせっかい」の作風に近いフォーク風な作品。7曲目の「Childhood's End」はギルモア色が強いブルース・ロック的な作品だが、リズムなどを始めとして「タイム」を思わせる部分もある。
 8曲目の「フリー・フォア」は当時シングル・カットされた作品で、そこそこポップな趣きがある明るい仕上がり。当時はムーグの低音が、凄まじく破壊的に鳴り響いていたような記憶があるが、今聴くときっちり音楽的なロジックにおさまっているは妙だ。9曲目「ステイ」は当時のウォーターズとライトの作風なしっくりと融合したような作品で、「狂気」のボツ作品のような雰囲気である。

2010年5月16日 (日)

TANGERINE DREAM / Live In Croydon`75 Pt.2-3 (The Bootleg Box Set.1)

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 パート2は、シンセの白玉にのってアコスティック・ピアノが入る。「リコシェ」や「アンコール」でお馴染みのものである。タンジェリンがいつから、そして、どんなきっかけでアコスティック・ピアノを導入し始めたのかはよくわからないのだが、おそらく導入はこの時期であることに間違いあるまい。ついでにそのきっかけとなったのは、想像だが、やはり当時一世を風靡していたキース・ジャレットにあるのではないだろうか。冒頭からインプロ風につま弾くところなど、その影響は明らかという気がするのだが....。
 さて、それがしばらく続くと、例のシューベルトみたいなトラディショナルなフレーズが登場する訳だ。このフレーズをフローゼは気に入っていたようで、その後何度も使い回すことなる。このアコピのパートはアルバムだと、こうした部分はほんの刺身のツマくらいのスペースしかさかれていないが、実はこういう風に延々とやっていた訳だ。

 5分ほどしたところで、一旦、シーケンサー風のリズムが登場して、お得意のパターンへと発展すると思いきや、いったん静まり。またして抒情的な空間に舞い戻ってしまうが、このあたり、当時のタンジェンリンが本当にインプロでステージをやり繰りしていたことを物語る展開だと思う。やがて鼓動のようなリズムが聴こえてくると、メロトロンのクワイア、SEなどが絡み、本格的にリズムが始まる。このパートではバウマンが手弾きしたパターンを主体にした、まさにリズムのつづれ織りのような、「エキサイティングなテリー・ライリー」の如き音楽であり、「リコシェ」そのものといった音楽になっている(ちなみに、録音したテープが30分だったからだろうか、最後に欠落があるのは、なんとも残念だ)。
 ちなみに子細に聴き比べた訳ではないから、断言はできないが、どうやらパフォーマンスの一部が「リコシェ」にも使われたようで、フローゼのギター・パート以降のかなり部分は、そのギターやシンセのフレージングからしてほぼ同一ソースのようにも聴こえる。ともあれ、この狂おしいまでのテンションは、まさにもうひとつの「リコシェ」といっても過言ではない仕上がりである。

 パート3は前パートの続きなのか、アンコールなのか判然としないが、おそらく前者なのであろう。前パートのテンションそのままで、シンセによるリズムの饗宴になっているが、後半多少疲れてきたのかテンションが落ち気味なのが残念だが、バウマンのイマジネイティブなキラキラするようなシーケンス風フレーズなど聴きものである。
 という訳でこのパフォーマンスは、「リコシェ」リリース時のタンジェリンが、実際のステージではどうだったのか知る上で、貴重なものであることは間違いない。わずか半年前のライブはおそるおそる使っていたという感じのシンセのリズムがここではメインとなり、初期の幻想的な音響がこのリズムの引き立て役みたいに変化していったことも良く分かるし、その後彼らがここで作り上げたいくつかのパターンを、自ら構造化させていく歴史を考えれば、その意味でも貴重な記録というべきだろう。

2010年5月15日 (土)

TANGERINE DREAM / Live In Croydon`75 Pt.1 (The Bootleg Box Set.1)

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 こちらは前回取り上げたロンドン公演から半年後の1975年の10月23日のパフォーマンスである。冒頭は一聴して誰でも驚くだろう。なんと「リコシェ」の同一のリリースの長いシンセ・ベース風の音が鐘のように鳴り響くあのパートの「元ネタ」である。「リコシェ」ではすぐさまリズム・ボックスのようなサウンドが重なって入ってきたが、ここではそれは入らず、比較的なだらかな起伏でこれが3分ほど続くことになる。「リコシェ」というアルバムがいかにも様々な音源を持ち寄って作られた仮想ライブだったことがよくわかろうものだ。
 この後はシーケンサー風なリズムが導入される。ここは「リコシェ」の元ソースではないようだが、かのアルパムの旧A面にそっくりな、バウマンの手動シンセベース・リズム+フランケのSE風シンセ+フローゼのギターでぐんぐん盛り上がっていく、全盛期のタンジェリン特有のあのサウンドである。スピード感あるリズムの元で、ギターのエロティックなフレーズが空間的なシンセの絡みあい、狂おしく上り詰めていくように展開していく様は全く素晴らしいものだ(オーディエンス録音風な音質なのがちと残念だ)。

 後半はリズムは次第静まるものの、狂おしいテンションはそのままシンセの乱舞状態になり(かなりのトランス状態)、それがしばらく続くと、次第に抒情味を増したムードが立ちこめていく。やはり「リコシェ」の旧A面のラストや「ルビコン」のオーラスに近い雰囲気である。やがて冒頭に聴こえてきたリリースの長いシンセ・ベース風の音も登場すると、ムードは桃源郷風なものとなり、静かにこのパートを終える。
 こうして聴いていくと、このパート1は大筋としてはほぼ「リコシェ」の旧A面の流れと同じだということがわかる。ただ「リコシェ」のような圧倒的な起伏、情報量はここにはなく、淡々とシンセでインプロを興じているという風情であり、ある意味「やはりライブでは、こんなもんだったのか」という感もするくらいだ。やはり「リコシェ」というアルバムは、実に様々なソースが総動員された結果、あの凄まじい音楽になったということなのだろう。ともあれこのパート1のパフォーマンスは約20分、半年前に比べれれば、シーケンサー風のリズムがより大きくフィーチャーされ、バンド全体のテンションがより上がってきていることは感じさせるのは確かだ。

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